「日本」という国号は、7世紀後半から8世紀初頭にかけて日本国内で定められたというのが通説です
中国の正史である「旧唐書」や「新唐書」には、倭国が日本という名前に変えたという記述がある
朝鮮の記録である「三国史記」にも670年に日本という国号が使われたという記述も存在する
しかし日本という言葉がいきなり登場したわけではなく元々「日本」という言葉は中国で別の意味で使われていたとう説が出てきました
中国にある「楊君墓誌銘」という石碑に記された「日本」という表記は実は今の日本ではなく朝鮮の「百済」を指していたのです
早稲田大学の李成市教授が中国の唐の時代に作られた「楊君墓誌銘」に記された「日本」という言葉は、現在の国号としての日本ではなく百済を指す呼称であったという見解を表明した。
ここに記載された「日本」は、唐の東方にある国という程度の意味で使われている。
文脈を考えるとこの言葉は具体的に百済を指していると推定される
日本と記された文章の前後には「扶桑」「風谷」「盤桃」といった東方を意味する他の表現と併記されている。
よってこの日本と言う言葉は当時百済を指していたことに間違いはないと明らかにした
これに関連し、昨年、奈良大学の東野治之教授も、墓誌の中に記された「日本」という単語は最初は国名を意味するものではなく百済を表している可能性を提起したことがある。
東野教授の研究はあくまで「日本」という単語が国号だったのかそうではなかったのかの点に注目したのに対し
李成市教授
は初めて楊君墓誌銘の翻訳文を研究し全体的な内容と文脈の中で「日本」の意味することが中国から見て東の方にある国程度の意味だったと推定した点が特徴だ。
楊君墓誌銘
は2011年、王連龍・中国吉林大学古籍研究所研究員が学術雑誌「社会科学戦線」7月号に拓本写真と判読文を公表したことで初めて存在が知られた。
この墓に眠ってる人は当時の外交使者でその活躍ぶりを示した記録だ。
「日本」が含まれた10行の文章の意味は
「ちょうど日本(つまり百済)の残党は倭(日本)の援軍で高句麗と戦っていた。風谷(高句麗)の残党は半島(新羅)を拠点として堅固だった」と翻訳した
韓国の反応
・百済の別称は日本でした
百済滅亡後、主がいなくなったので日本という名称を倭が引き継いで使用することになりました
確かなことは想像以上に日本と百済が非常に親しい国だったということです
以上
・古代史は私たちが知らないことがあまりにも多い
・天皇家の中に百済の血統があったのを見ると百済と日本ほぼ同盟レベルのようです
・本社を日本に移転したようなものです
・昔のロッテかな?
・百済復興運動を助けろと日本の天皇と皇太子が数万を送ったが唐新羅連合軍に大きく打ち負かされ百済復興運動も終わった…。
・百済と倭はもともと仲が良かったわけですから
・そもそも日本=日の出る国という事自体が中国からの視点でしょう(笑)
・そうだね。中国から見れば東の方に百済と倭が一緒に見えたはず

